よく言われる定番のフレーズで、「海外に行くと価値観が変わる」って聞いたことありませんか?日本は独自の言語や文化があり、所謂欧米を含む世界との違いはたくさんあります。さて、この違いから価値観が揺らぐほどの経験をすることはあるのでしょうか?
確かに違いはある、が…
私は20歳過ぎるまで海外に行ったことがなかったので、行く出発前は「カルチャーショックを受けるだろう」「たくさん驚くことがあるのだろう」と身構えていました。それこそ、価値観が変わるのではないかとも思っていました。
しかし、実際に海外へ行っても自分の価値観の根底が揺らぐほどの驚きはなかったというのが正直なところ。最初の海外では一年弱カナダに住み、これまで北米、南米、ヨーロッパ、アジアと色々な国に行ってみましたが何事も想定の範囲内でした。もちろん、驚くこと、感心すること、理解できないことなどは日常的にありましが、これまでの20余年の人生で出来上がった自分の土台というものは揺らいだとは思っていません。土台が肉付けされて、より良い基礎となったという感じです。
何故だろう?
理由を考えてみると、スマホとインターネットのおかげで世界中の情報が瞬時に手に入る世の中だからではないかと思います。今日日、日本にいても世界中の情報にいくらでもアクセスできる状態にありますよね。現地で発信された文章や写真はもちろん、動画まであるような充実具合です。
もちろん、インターネットで得た情報と実際に見聞きして経験して得た情報には天と地との差があるとは思います。私が言いたいのは全く知らない世界との遭遇ではないのです。多少正確でなかったり、脚色なりされてたとしても。インターネットで得た情報を実際に経験することは、感覚的には情報を反芻して自分に取り込むような作業というか。
インターネット以前
一方、インターネットが普及する前、海外に飛び立って行った人たちにとっては価値観が揺らぐような衝撃があったのかもしれません。インターネットや地球の歩き方もなかった時代に国外に出て行くだなんて想像もできません。文字通り冒険です。
今も世界一周をしたりといった若者はいますが、旅の難易度は大きく下がっているはず。スマホやパソコンなどテクノロジー無しというテーマで旅をしたら面白いかも?
あるにこしたことない語学力
海外での一番の発見は語学の便利さかもしれません。国や地域や年齢層によっても違いますが、お互いに単語レベルでも知っていればコミュニケーションを取ることができます。
例えば、南米旅行をしたとき、レベルの差はあれど英語を理解してくれる人はいくらでもいて、なんて便利なんだろうと。
受け入れられなくとも理解を
海外での生活中に色んな国の人と交流して、正直全く理解できないこともあります。お互いが話し合ったところで、平行線となり解決しないような。宗教、歴史、常識、立ち振る舞いなど。こういうパターンに対して、私は自分が折れて歩み寄る必要はないと思っています。場合によっては、弱い奴と認識されてしまう恐れさえあるからです。
大切だなと学んだのは、相手との違いを受け入れられなくとも、その違いがあるという事実を理解するということです。違うのは当たり前で、理解できないのも当たり前。誰とでも話せば分かり合えると思っているのは間違いで、そんなスタンスだと議論しても迷子になってしまいます。ここでの話はどうしても理解できない場合で、相手を理解しようとする姿勢を持ち続けることは大事なので悪しからず。